はやみずの「は」

コミュニケーションの狭間、あるいは最近のチャット流行について

「Slack最高!」「メールを全廃してSlackに移行しました」 みたいな話を最近しばしば目にすることが多い。

コミュニケーションツールの移行というのは、技術の問題はたいしたことでは無くて、結局人と人との問題である。 たとえばチームをまるっとSlackに移行できたところは、Slackを抵抗なく受け入れられる均一さを持っていたか、あるいは誰かが意見調整をキチッと頑張ったところだろう。

とはいえ、チーム内のコミュニケーションを全部チャットに移行できたとしても、全世界をチャットに移行できたわけではないので、当然ビジネス上のやりとりではチャットではない=旧来通りメールで行われるコミュニケーションが相当量残っていることは間違いなかろう。 特に最近流行しているチャットはチーム内でのコミュニケーションに特化しているものが目立つので、チーム外、あるいは会社の外とのコミュニケーションには適さない。

そうすると、チャットによるコミュニケーション領域と、メールによるコミュニケーション領域の狭間に存在する人が必ずどこかで発生しているはずである。 業務上のやりとりがほとんどチーム内で閉じている人たちはチャットさえ使っていればよくなるので快適かもしれないが、メールとチャットの狭間にいる人たちはどうなるのだろう。 コミュニケーションチャネルが増えることは、1つのチャネル上のやりとりの流量が多少増えるよりもよほど厄介である。いくつもの異なるチャネルはその利用作法が異なるからこそ存在するわけだが、異なる作法を使い分けるには、思考のコンテクストスイッチが否応なく発生する。 チャットの導入によって便利になるはずの世界が、狭間にいる人たちにとってはより大変になるだけなのではなかろうか。 しかも、チャットを使いながら、チャット推進派の人たちによって古くさい、不便だとくさされているメールも同時に使い続けなければならないわけである。

昨今チャット文化を広めている人たちの属性としては、自前でサービスを提供するWeb企業のエンジニアが優位に多い。 彼らは自社でサービス開発をしているから、おそらくエンジニアとしての業務上のやりとりはチーム内、あるいは自社内で完結する割合が他業種に比べて高いからこそ、チャット文化の浸透によって得る恩恵が多いものと思う。 しかし一方で、セールスであったり広報であったり、あるいはエンジニアのマネージャであったり、そういう人たちというのはWeb企業であっても外部の人とのやり取りは多いはずだと思うのだが、彼らは先に述べたコミュニケーションの狭間に立たされてはいないのだろうか。

チャット文化の推進を批判する意図はない。チャット導入によって快適になる環境は数多くあるはずで、そういう場所ではそうすれば良いと思う。 しかし理屈上はチャットとメールの狭間に立たされる人が発生するはずで、そういった人たちのケアはどうなっているのか、あるいはその立ち位置の人はそのことを苦にしないものなのか。 チャット文化礼賛の声のなかからこの手の話題が聞こえてこないのが、やや疑問に感じられる。